毎年1月の終わり頃から2月にかけて舞子公園周辺を散歩していると、餌を求めて忙しそうに目白の群れが低く飛び交っているのに出会います。一年で最も寒い時期ですが、もうすぐ春がやって来ることを告げているようです。近くの川でもカルガモが時々、姿を見せるようになりました。カルガモは何羽飛んで来ても面白いことにきまって偶数です。直近では6羽で来ていましたが、必ずペアでいます。昨年は4組のペアが全部で24羽の雛を孵しました。今年も私たち近隣の人たちの目と心を和ませてくれることでしょう。

さて、今年になってから私はある人の紹介で、1週間に1日だけですがボランティアとして10人余りの知的障害者と接する機会を頂いています。今までの私は正直なところ、道を歩いていてビックリするほど大きな奇声を上げて歩いて来る知的障害者に出会うと避けて通ったり、「何を言っても通じない」位にしか思っていませんでした。でも、それは偏見であり、間違いである事に気づきました。お釈迦さまは、「だれもが自分がいちばん大事。そのことを知ったならば、自分と同じように人を決して傷つけてはならない」と教えられています。

昨年誕生した24羽のカルガモの中に、何故か1羽だけ成長した姿が仲間より小さく、羽の色も茶色っぽくなっているのに気づきました。気を付けて見ていると、この1羽だけ他のカルガモと行動を異にして、いつもひとりぼっちで離れて過ごしていました。色んな障害を持って生まれてくる子供はどういう割合か分かりませんが、どの社会にも存在するのだそうです。だから、ひょっとして私が受けるべき障害を、代わりにその人が受けてくれているのかも知れません。割合から言うと、私が受けても何の不思議はありません。そう考えてみると、とても他人事とは思えなくなってきます。と同時に、障害を背負って生まれてきた子供を持つご両親の気持にまで思いを巡らせた時、「どうして家の子だけが���」と悲嘆されている姿が思い浮かんでしまいます。でも、こちらが思う以上に皆さん明るく暮らしておられます。

私たち健常者が障害を持った人々と共に生きられる地域社会を築く努力をすることは、当然なことではないかと最近になって考えられるようになりました。人は、一人では生きて行けません。先にも書いたように、障害者を差別することは、自分を差別することであって、排除することは、つまり自分を排除することにつながるのではないでしょうか。私個人は、他の人と違うのは当然です。だから、健常者や障害者という言葉で区別してしまうこと事態、危険性があると思います。知的にハンディを持っている人は、自分の伝えたいことや気持を言葉で表したり、言われたことを理解するのが、出来ないのではなく苦手なのです。また、手先をうまく使うことも苦手です。でも、ボランティアも2ヶ月目に入ってみんなを見ていると、嬉しい気持や悲しい気持、好き嫌いといった心で感じ取ることは健常者よりむしろ豊かであることが解ってきました。

まだまだ駆け出しですが、それでも一人ひとりが喜んで迎えてくれるようになったし、本当にしっかりした個性を持っているので、私自身も教えられることがあるだろうと思うと、今後が楽しみです。出来れば別の機会にこの続編を綴って、みなさんと共に考えてみたいと思っていますので、よろしくお願いします。 -合掌-

垂水支部 景色
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