このタイトルの本は、立正佼成会 次代会長の庭野光祥さまの書かれたご著書です。
光祥さまは去る6月9日(火)新宗連の理事会会議に出席される為に、姫路市(兵庫県)に来られ、そのわずかな時間に初めて神戸教会にお越しいただきました。その場に集まった1000人近くの会員一同が感激してお迎えした余韻を思い出しながら、書かせていただきました。
開祖さまに倣いて1

 まず読みはじめて、この本のどの部分をとってみても、『珠玉(しゅぎょく)』の文章(言葉)が満ち溢れていることに、ただただ圧倒されるばかりだということです。光祥さまの生まれながらの恵まれた素晴らしい資質や、現在に至るまでに修得された中から出てくるものや、加えて女性らしいやわらかな文章にホッと気持ちが暖かくなりました。とにかく読み始めてみたいと思います。

○ 「はじめに」の中から
 
  「開祖さまは膨大な数のご法話のなかに、私たちが『宝処(ほうしょ)』へと向かうために必要な宝物をすべて遺してくだっさているはずです。あとは、それを見る眼を持つだけでした。」と、あります。
 
 この最後の所の「それを見る眼を持つだけ」と、書かれている部分は、私達が、日頃の生活の中で知り合う人や、巡り合う書物、美味しい料理、また、動物、沢山の種類の花や、道端の可憐に咲く花等にも、それらに対して、見る眼や、知識を持っているのと、いないのとでは、人生において、大いに違ってくるのではないでしょうか。

 人それぞれに、この部分の解釈は、違うこともあるでしょうし、筆者の解釈は、もしかすると、違っているのかもしれませんが、常日頃から、色々なことに興味を持ち、知識を増やすことも、大切だと思うし、良いことだと思うのです。

 ですから、この光祥さまの、ご著書については、今後も、愛読書としていつも、読ませていただくことにして、おりおりにふれて、また、感想を書かせていただきたいと思います。そうすれば、少しづつでも、開祖さまの御心に近づいていかれるような、気がいたします。次に[33]の目次の中から、22.いのちのもとに出合う……先祖供養を選んで筆者の感じたことを述べてみたいと思います。

開祖さまに倣いて2開祖さまに倣いて3

 
     

(22)いのちのもとに出合う……先祖供養

 『先祖供養とは、この自分のいのちの本を知ることなのです。自分のいのちの根を知ることなのです。それによって生かされている有り難さに目覚めることが先祖供養の出発点です。』とあります。
 「佼成会の教えは、先祖供養と親孝行」と教えていただいて、今日まで来ました。偶然にも、ご著書の中の内容と良く似ているのですが、八人兄弟の末っ子として親兄姉には、随分と可愛がられ、いっぱいの愛情を受けて成長しました。しかし、父が13歳、母を10歳で亡くした後は、姉たちに育てて貰いました。父は、浄土真宗の信者で、信仰心のとても厚い人で、いつも「親鸞さま、親鸞さま」と口癖のように言っていました。穏やかな性格で人が良く、叱られた記憶はありません。お経が大好きで、お寺のお坊さんに直接小学生の頃から、お経の手ほどきを受けていたそうです。そんな父のお蔭さまで、現在まで、兄弟皆、普通の平凡では有るけれども、幸せな家庭を築いていかれたと思います。

 親を亡くした人間は、親孝行は出来ませんが、先祖供養はいくらでも出来ます。今まで、ご宝前(ご仏壇)に手を合わすことのなかった人も、身近な人が亡くなると、自然と手を合わせるようになります。それは、無理からの行為ではなく、亡くなった人への気持ちが自然とそうさせるのだと思います。

 佼成会の「教え」の中で、一番わかりやすい「先祖供養と親孝行」を実践してみる事は、とても、素晴らしく、意義深いことだと思います。

合  掌