IARFに参加して

2006年3月26日から30日まで開催された第32回IARF台湾大会に参加して、貴重な体験を通して学ばせていただきました。

世界平和は、遠いことではなく、開祖さまのお言葉をおかりするならば、私たち皆の地域布教の一つ一つが数となり年月となり、力となって、このIARFに立正佼成会が参加し、また、WCRPの発足に至る、微量ながらも世界平和へ、また、西欧の中に仏教のすばらしさをお伝いする担い手となっていると感じとらせてもらいました。そして、「師の求めたるところを求めよ」も、ここにあることを判らせて戴きました。この機会を頂戴し心から感謝申し上げます。ありがとうございます。

立正佼成会本部の事前教育では、このIARFこそが、開祖さまが後半生をかけられたWCRP・世界宗教者平和会議の生みの親といってもよい世界最古の宗教協力組織であること。また、IARFの起こりとWCRPの発足に至る経緯を教えて戴きました。


酒井前理事長からは、私たちが判りやすいようにと、開祖さまのご著書をそのまま抜粋した資料でご説明下さいました。・・・以下資料より

マルチンルターによる宗教改革からこのかた、キリスト教はカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)とに大別されるようになっていました。カトリック側は、プロテスタントを異教として扱い、その信徒を迫害しました。カトリック信者とプロテスタント信者の結婚は認めない、という規律も作られ、そのために若い男女の悲劇を数多く生み出したりしました。それどころではなく、両信者の憎しみ合いから、戦争までもひきおこされました。今でも北アイルランドでは、そうした争いが続けられています。
(平和への道/庭野日敬 著)



昭和33年の真実顕現以後、昭和37年から39年ころにかけて、カトリックの総本山であるバチカンが他宗教に対して胸襟をひらこうとしない姿勢に疑問をいだき、それをさまざまな場所で訴えていた。
(この道/庭野日敬 著)



それが、私の後半生を決定する出会いになったのである。 

九月十四日、サン・ピエトロ大聖堂の礼拝堂に世界各国の枢機卿、司教、神学者二千五百余人が会した。異教徒は仏教徒の私だけであった。

公会議は教皇パウロ六世によるミサで始まり、そのあとパウロ六世が「協会一致」について全世界の司教に語りかけたのである。

「キリスト教が分派を生んだ罪は歴代の教皇の罪なのです。いまやキリスト教を初めとして、宗教が分裂している時ではありません。互いに手をとり合って一つの平和へ進む時です。」

「あらゆる人種、あらやる宗教を信ずる人びとに神の愛は平等に与えられなければなりません。私は至らない者ですが、カトリックのおきてに従ってイエス・キリストになりかわって教皇をつとめる者です」

私は大きな衝撃をうけた。パウロ六世教皇の言葉がどれだけの勇気と決断を持って語られた言葉であるか、私にはいたいほどわかる気がした。私は胸が熱くなった。

世界に七億以上の信徒を擁するカトリック教会の権威は「教皇は絶対に誤りをおかすことがない」という教皇の無謬性に発している。パウロ六世教皇は、そのカトリック教会の誤りを認め、教皇自らの罪として懺悔されたのである。その教皇のお言葉を耳にして、私は筆舌に尽くせぬ感動を覚えた。

翌十五日の夕刻、パウロ六世は私をバチカン教皇庁に招いて、単独会見に応じられたのであった。

「遠いところ、公会議に出席下さって有難うございました」と私に手をさしのべられた教皇は、「今や、人類という言葉は隣人という言葉と等しい時代になりました。キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がキリスト教徒のために祈って互いに協力し合うのでなければ、宗教が世界の平和に貢献することはできません。それ以外に道はないのです」と語られたのであった。

私のカトリックへの疑問は、いっぺんに吹き飛んだ。

宗教は自分の教団の姿勢を伸ばすことが目的なのではない。人びとの心に平安をもたらし、世界に平和をもたらすために存在するものだ。その宗教が、教義上の用語や儀式の違いにとらわれて争い合うことほど愚かなことはない。

これまで、私が繰り返し繰り返し自分に言い聞かせ、人びとに語ってきたことが間違っていなかったことを、私はローマ教皇に証明して頂けた思いだった。千年以上にわたって他宗教に対して固く閉ざされていた重い扉が開かれていくのを、まのあたりにしたのである。

「世界平和のために、精いっぱいの努力をすることをお約束します」

わたしも、パウロ六世教皇の手をしっかり握り返して申し上げた。


その私の胸に、一つの決意が生まれていた。

「世界の宗教者が一つのテーブルについて、平和のためにどう力を合わせられるか話し合うことができないものか、それを実現させるためならば、私は使い走り役でも何でも身を粉にしてやらせてもらおう」まだ、漠然としたものではあったが、世界宗教者平和会議の構想が私の胸に芽生えかけていたのである。この第二バチカン公会議を機に協会一致運動(エキュメニカル・ムーブメント)は急速に拍車がかかっていった。それが世界の宗教界に対話の時代をもたらした。
私の履歴書/庭野日敬 著



他宗教にたいして、独善的であったカトリックのバチカンの扉を開いた。あらためて、このお話をお伺いして、真理に対して、過ちを指摘し続けた開祖さまの勇気ある行動と、また、歴代の教皇の罪を懺悔なさったパウロ6世の勇気ある決断に、感激で胸にあついものがこみ上げてまいりました。このあと、パウロ六世は、九百年にわたり相互破門の関係にあった東方ギリシャ正教会、さらに、プロテスタント教会、英国聖公会に対して、カトリック教会のほうから態度を改めることを宣言し、自ら東方ギリシャ正教会訪ね、また、英国聖公会と対話をもつなど、教会一致のための活動を強力に推進されました。

IARFの起こりは、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのを記念して世界の宗教者が初めて一堂に会し万国宗教会議をアメリガのシカゴで開催した。それは、およそ百年前の1893年のことで、マハートマー・ガンジーも参加。1900年5月25日に、ユニテリアンの指導者によって創立された。

ユニテリアン運動とは、キリスト教正統派の中心教義である三位一体・トリニティを否定、神の一体制・ユニティ−を主張する教派で、「神は、人間が平和を築き、相互理解を推し進める為の道具になれるという才能を下さった。人々は信仰によって生きる自由を持ち、自分の信念に従って信仰を形成し、表現する自由を持つ。他人に対する批判は神に反抗する事である。寛容の精神こそは人間の愛の表現であり、他人の意見を尊重させるものである。」・・・教育資料より


第32回IARF世界大会の会場となった佛光山は、台湾南部に位置する高雄県にあり、1967年に星雲大師により設立。仏法を世界中に流伝させ、平和の実現に尽力されている仏教僧院です。

竹林がゆれ、胡蝶蘭が咲き乱れ、小鳥のさえずりが響き渡り、そよ風がとおりぬける。また、学僧、参加者の会顔、祈りのハモニーが聞こえる、そこは、聖地でした。

今回のテーマは、“多様性における尊厳でした。IARFの参加者の殆どが宗教をもち、個人レベルでの参加されておりました。パネリストの方は、宗教団体の会長である方や博士など、大会のテーマに添った内容が基調講演としてありました。

また、サークルグループでは、法座を模して、参加者が少人数のグループになって、テーマに即して互いの国の現状や互いの宗教において話し合いました。私のサークルでは、母国の宗教間において、違う宗派というだけで、長年の親友が自分の結婚式に参列出来なかった経験を今は、とてもおかしなことで、自分もそうして来たが、この会に参加するようになって、行けばよかったと思うようになったことを聞いて、日本では、宗派は違っていても、神社仏閣、結婚式も喜んで受け入れられています。また、ヤング・アダルト・メンバーによる上映では、原住民が生まれ育った地を離れなくてはならなくなる現状を紹介。また、娘に違う宗教の洗礼をしたと、やっと、就職できた教師の職場を辞めさせられる現状を紹介してくれました。また、基調講演では、このIARFでは、毎回、会を通じて親友となった友との再会が大会の楽しみでしたが、9・11以来、戦場とかしたテロで、親友の友達が自分の宗派のテロにより殺されたと、再会した時、胸を何回も何回も泣きながら叩かれ、そして、最後は二人して涙が流れて止まらなかった。また、イスラエルの母国の少年に将来の望みを聞くと、「おじいちゃんになること」と、答えます。それは、目の前で、身内や友達が亡くなる現状だから、生きること、年を取れることが夢・望みなのです。と、話して下さいました。

この大会で講演を拝聴させてもらい、日本の宗教の関係、文化や家族関係を誇りに思いました。古代昔から、神を祀り、お宮参りに神社へ、クリスマスも町中で祝い、家族を大切にし、家には仏壇・ご宝前があり自然と手を合わせる。道のつく華道・書道・柔道・茶道など、いずれも、霊性をたかめる文化をもち、他を受け入れる誇れる民族だと再確認いたしました。


IARFには、宗教対話と霊性の寛容といった、草の根レベルの平和活動が根底にあります。

我々一人ひとりが、このIARFのニーズに答えるには、また、師の求めたるところを求めよ“の開祖さまが求められた世界平和へつながるには、どのように、貢献できるでしょうか。異文化や異なった宗教者が、実際にここに参加して、肌で対話・交流を体験することがもっとも早い世界平和ではないかと思いました。一人でも多くの方を、この縁に触れていただけるよう布教伝道に歩かせていただきます。

                               合  掌